※全て私の妄想です妄想大河ドラマ 九州三国志 第47話 『関ヶ原への道』 秀吉の死によって、豊臣政権における文治派と武断派の対立は一気に表面化した。これを尻目に徳川家康(中村勘三郎)は、禁じられている大名間の婚姻などを勝手に行うなどして影響力を強めていく。(太閤殿下は不世出の天才であられた…。だが、政は天よりも地を見ねばならぬ。万民に安寧をもたらすには、儂が天下を治めるしかない…)。1599(慶長4年)3月、家康を抑えられる唯一の存在だった前田利家(草刈正雄)が没すると、豊臣政権の混迷はさらに深まった。3月4日、加藤清正(伊藤英明)・福島正則(服部桂吾)らの武断派大名7人が石田三成(高橋一生)の大坂屋敷を襲撃するという事件が起こる。三成は危うく難を逃れ、家康の仲裁によって双方は和睦するが、これにより三成は佐和山城に蟄居。家康は武断派の諸将を取り込んで大坂に居座り、ますますその専横を強めていく。家康の理想と三成の理想、その衝突は不可避なものとなりつつあった…。
同時期、島津家にも一大事件が発生する。秀吉の引き立てにより家老でありながら8万石の領主にまで登りつめていた伊集院忠棟(市川染五郎)は、その権勢から次第に家中でも危険視される存在となっていた。3月9日、忠棟は伏見の島津屋敷に呼び出される。ひと月前に家督を継承したばかりの島津忠恒(中尾明慶)は、忠棟と面会すると、いきなり刀を抜いてこれを刺し貫いた。「殿…!何をっ…!」。「伊集院…お前は島津のためにならぬ…!」。この粛清劇は、龍伯(阿部寛)・義弘(内野聖陽)とも不在のうちに、忠恒の独断で行われたものであった。「忠恒、早まりおって…」と義弘は歯噛みした。忠棟の子・忠真(大東俊介)は父が斬殺されたことを聞くと都城にて叛乱を起こす。この鎮圧には翌年2月までの時間を要した。
1599(慶長4年)10月、家康は浅野長政(白井晃)・前田利長(玉木宏)らが自らの暗殺を企てたとし、長政を蟄居させ、利長に対しては加賀征伐の号令を下す。利長は母の芳春院を人質に送って弁明。これによって前田家も徳川の前に屈伏することとなり、家康の力はさらに強まる。大坂で豊臣政権を牛耳る家康は、諸大名に対する婚姻政策や根回しを重ね、自らの味方を増やしていった。こうした家康の専横を快く思わない五大老の一人・上杉景勝(豊川悦司)は、自領の会津に戻って軍備を増強。家康は前田家と同じ手筈で上杉家を詰問するが、上杉家老・直江兼続(田辺誠一)は逆に家康の横暴ぶりを弾劾する書状を発信した。これに激怒した家康は会津征伐を決定。慶長5年(1600年)6月18日、伏見城の留守居役に鳥居元忠(渡瀬恒彦)を残し、家康は諸大名を率いて東へと進軍した。
7月11日、石田三成は親友である大谷吉継(大沢たかお)に、家康打倒の兵を挙げる決心を打ち明ける。既に宇喜多秀家(水嶋ヒロ)、小西行長(加藤虎之介)らも賛同を示していた。「豊臣の世を守るため、内府を討つ」。家康とも親しかった吉継だが、三成の決意に突き動かされ、共に立つことを承諾。「お主には敵が多い。ここは備前中納言殿か、安芸中納言殿に総大将を御頼み致せ」。三成と吉継は安国寺恵瓊(市川左團次)を通じ、毛利輝元(西村雅彦)を打倒家康の総大将へと担ぎ出すことに成功する。三成は会津討伐に従軍していた武将の妻子を人質にとる作戦に出るが、細川忠興(萩原聖人)の妻・珠(菅野美穂)はこれを拒否。屋敷に火を放ち、家臣に自らを槍で突かせて自害したのであった…。
家康は内通していた増田長盛(片岡鶴太郎)から三成挙兵の報を知らされると、下野小山にて会津征伐従軍中の諸将と評定を開く。家康は「大坂に妻子を人質に取られている方もおられよう」と言い、どちらに付くかは各人の自由であると宣言する。しかし福島正則以下その場の殆どの将は、逆賊・三成を討つとして家康に協力することを表明した。家康は三成の挙兵も計算ずくで軍を進めており、また三成も家康に計画が見通されていることを知りながらあえて挙兵していたのである。こうして豊臣政権は徳川方(東軍)と大坂方(西軍)の真っ二つに割れ、日本全土を巻き込んだ一大決戦へと突き進んでいく。東西両陣営は日本全国の大名に、自軍へと参加するよう檄を飛ばした。
東西陣営のどちらに付くか、九州の諸大名も揺れていた。しかし宗茂(藤原竜也)は、一も二もなく、当然のように言った。「大坂方に、お味方致す。出兵の準備にかかれ」。それに異を唱えた家臣がひとりだけ居た。薦野増時(尾美としのり)である。「恐れながら…内府様の勝利は疑いなき事かと存じまする。ここは、加藤様、黒田様らと共に、徳川方にお味方すべきかと…」。実際、家康からは大幅な加増を約束する書状が届いており、朝鮮の役より友情を結んでいる肥後の加藤清正からは、しきりに「内府殿にお味方されよ」という呼びかけがなされていた。豪勇鎮西一を誇る立花家をなんとか自陣営に迎えようと、東西両軍は必死であった。しかし宗茂に迷いはなかった。「故・太閤殿下の遺訓に背いているのは内府殿だ。太閤殿下の御恩に報いるためにも、秀頼公を盟主に据える大坂方に味方するのが信義」。「徳川様とて、石田治部少様は秀頼公を謀る不忠者と申されております。信義は、勝った方にもたらされましょう」。薦野はなおも食い下がった。
その席に入ってきたのは、なんと宮永村から駆け付けてきた、ぎん千代(広末涼子)であった。「ぎん、お前…」「ご無礼を承知で申し上げます、内府様にお味方下さりませ。時流はもはや、徳川方にあるとしか思えませぬ。立花家の、柳川十三万石の、ために…」。宗茂は少し間を置いて、言った。「この柳川も、太閤殿下より賜ったもの。そして今日俺があるのも、太閤殿下の御蔭である。内府殿に味方するは、信義の道に反することとなる」。「なれど…」と薦野は言いかけたが、「勝敗に、拘らず!」と宗茂は言い切った。その姿に、信義を貫いて散った高橋紹運の姿が重なる。ぎん千代も、薦野も、それ以上は何も言えなくなった。
ぎん千代が宮永へ戻る際、宗茂は声をかけた。「済まぬな、ぎん。俺は、このような生き方しか出来ぬ」。ぎん千代も言いたいことが言えて満足したのか、明るい表情になっていた。「御武運をお祈り致しております」「宮永からでよい。留守を、守ってくれ」。ぎん千代はまた、侍女と共に宮永村へと帰って行く。その宗茂の後ろから、「殿…」と声をかける武将がいた。吉弘統幸(山本耕史)である。「申し上げ難き、事で御座いまするが…」。宗茂はその気持ちを察し、自ら言葉をかけた。「構わぬ、義乗殿をお助けしてくれ」。東軍の徳川秀忠の軍には、改易された大友吉統の子・義乗が加わっていたのだ。統幸は旧主・大友への義理を果たすため、馳せ参じたい心持であった。しかし東軍に与すれば、立花家とは敵同士と相成る。宗茂は統幸の気持ちを汲み、大友への帰参を快諾した。「御恩は、忘れませぬ」。宗茂は路銀や馬・武具などを統幸に与え、先んじて東へと向かう従兄の背を見送るのであった。
一方、佐嘉では鍋島直茂(北村一輝)が気を揉んでいた。息子の勝茂(海老澤健次)を会津征伐に従軍させたものの、まだ若年であり心もとない。「状況をよく見よ。場合によって父が指示を出す」とは伝えてあるが、複雑な情勢の中、どう転ぶかは解らない。家康に兵糧を献ずるなど出来る限りの布石は打っておいたが、直茂は佐嘉に留まったまま、あらゆる展開を想定して対策を考え始めた。(…もし、鎮西において、あの男を相手にせねばならなくなった時には…)。直茂は眉間に皺を寄せ、考え込んだ。(我ら父子も、死を覚悟して当たらねばならぬであろうな…)。
同じ頃、薩摩の島津龍伯の下には、京の義弘から再三の援軍要請が出されていた。しかし庄内の乱の後始末や家臣団の分裂等、島津領内は様々な問題を抱えており、迂闊に援兵を出せない状況となっていた。京にある義弘の軍勢は僅か数百程度である。「義弘よ、動いてくれるな…」龍伯も忠恒も、あえて援軍を出さないことで中立の意思表示を行っていた。しかし京の義弘は、否応なく戦乱の渦中へと巻き込まれていく。少なくとも、傍観を決め込むことが出来るほど状況は甘くなかった。義弘の下へは、薩摩から勝手に抜け出してきた義弘派の兵士などが馳せ参じ、千騎ほどの軍勢が集まる。義弘に同行していた島津豊久(松田翔太)が聞く。「伯父上、この戦、どちらが勝ちましょうや」。「どちらでもよか。島津は島津の戦をすうだけよ」。「手勢が千人足らずとみて、侮られては悔しゅう御座います」。義弘は笑みを浮かべて言った。「そん時は…千人で、万人の働きばして、敵も味方も驚かせればよか」。豊久も笑って伯父に同意するのだった。
慶長5年(1600年)7月、宗茂は西軍に参加するため、薦野増時を留守居役として残し、軍勢を率いて柳川城を出発した。途上の船において、宗茂は家康からの再度の書状を受け取った。豪勇鎮西一の立花家を、どうしても自軍に引き込みたかったのである。「勝利の暁には、鎮西にて五十万石の大俸を約束しよう」…書状にはそう記されていた。しかし宗茂は書状を破ると、海中へと投棄した。そして家臣に向かって言う。「いや、五十万石の字を見た時は、心が揺らいだわ」。宗茂は笑った。由布雪下(笹野高史)と小野鎮幸(宍戸開)は、顔を見合わせて頷き合う。(殿には些かも迷いがない…)。家臣は皆、そう思った。
畿内で、中部で、奥州で、北陸で、四国で、そして九州で、日本中の到る所で戦いの火蓋が切られようとしていた。
キャスト
立花宗茂 藤原竜也
立花ぎん千代 広末涼子
高橋統増 福士誠治
宋雲尼 財前直見
宝樹院 伊藤かずえ
吉弘統幸 山本耕史
由布雪下 笹野高史
内田鎮家 竜雷太
小野鎮幸 宍戸開
十時連貞 岡田義徳
薦野増時 尾美としのり
原尻鎮清 若松武史
高野大膳 菅田俊
世戸口十兵衛 筧利夫
立花吉右衛門 尾上寛之
立花三太夫 山本匠馬小野理右衛門 阿部サダヲ
鍋島直茂 北村一輝
彦鶴 貫地谷しほり
鍋島勝茂 海老澤健次
成富茂安 金子貴俊
岩松 はなわ
島津義弘 内野聖陽
千早 小西真奈美
島津豊久 松田翔太
島津忠恒 中尾明慶
島津忠長 沢村一樹
島津以久 野久保直樹
中馬重方 照英
山田有栄 山根和馬
木脇祐秀 中邑真輔
新納旅庵 熊面鯉
長寿院盛淳 小倉久寛
川上忠兄 小林賢太郎
伊集院忠棟 市川染五郎
伊集院忠真 大東俊介
白石永仙 塩見三省
加藤清正 伊藤英明
福島正則 服部桂吾
細川忠興 萩原聖人
黒田長政 田中幸太朗
池田輝政 高嶋政宏
加藤嘉明 前川泰之
浅野幸長 細山田隆人
山内一豊 塩野谷正幸
藤堂高虎 藤木直人
宇喜多秀家 水嶋ヒロ
小西行長 加藤虎之介
石田三成 高橋一生
大谷吉継 大沢たかお
増田長盛 片岡鶴太郎
前田玄以 斉木しげる
長束正家 林泰文
小早川秀秋 池松壮亮
毛利秀元 五十嵐隼士
吉川広家 豊原功補
安国寺恵瓊 市川左團次
本多正信 大杉漣
本多忠勝 中村獅童
結城秀康 川村陽介井伊直政 上川隆也
鳥居元忠 渡瀬恒彦
直江兼続 田辺誠一
前田利長 玉木宏
佐竹義宣 窪塚洋介
珠 菅野美穂
西笑承兌 斉藤洋介
山口直友 徳井優
小笠原少斎 美木良介
上尾 高田聖子
かよ 平岩紙
日浦 鷲尾真知子
淀殿 竹内結子
北政所 森下愛子
豊臣秀頼 加藤翼
浅野長政 白井晃
上杉景勝 豊川悦司
毛利輝元 西村雅彦
黒田如水 小林薫
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